戦国大名二階堂氏の概説
 戦国大名二階堂氏は須賀川城(福島県須賀川市)を居城として、岩瀬郡を中心とする領地を支配していた。

家紋は三つ盛り亀甲に花菱を使用したと伝わる。

 文禄三年(1594)七月の『蒲生領高目録』では岩瀬郡の石高が五万千四百十四石三斗二升とあるので、二階堂氏の所領高は岩瀬郡から長沼地方を除いたものに、安積郡南部・白河郡と石川郡の一部を加えて五万数千石であったと考えられる。

 初代当主二階堂為氏の時代に二階堂治部大輔、袋田右近などの諸豪族を討ち岩瀬郡内を統一して戦国大名としての地位を確立した。

 二代目当主二階堂行光の事蹟は伝わっていない。

 文明十六年(1484)八月二十四日、会津四郡を支配する芦名盛高が勢至堂峠を越え岩瀬郡の今泉・柱田辺りに侵攻してきた。

 三代目当主二階堂行詮が芦名勢に馳せ向かい首級三百を得るという。しかし同年九月八日再度芦名勢と長沼で戦い敵百六十余を討ち取るも、味方の将三十六騎と雑兵二百余が討ち死にしたという。

 この戦いにより、二階堂為氏の代に二階堂氏の支配するところとなった岩瀬郡長沼地方が芦名氏の支配に帰した。

 四代目当主二階堂行景は永正元年(1504)亡くなっているが、若くして亡くなったとみえ嫡子がなく、行景の弟二階堂晴行(続義、行直)が五代目当主となった。

 天文三年(1534)に二階堂氏は伊達・芦名・石川氏と連合して岩城・白河氏と戦っている。

 すでに、白河義綱の嫡男晴綱と婚儀の約をなしていた岩城重隆の娘を強引に娶ろうと、伊達稙宗・晴宗父子が白河へ発陣した「奥羽永慶軍記」にいう滑井合戦の事とはこの時のことと考えられる。

 また、別書に伊達稙宗・晴宗父子が白河領新城・矢吹を侵略し、その凱旋にあたり、その地を道を借りた二階堂氏に贈り、かつ晴宗の妹を二階堂晴行の嫡男照行に娶すことを約すとある。

 この戦いで二階堂氏は白河郡のうち新城・矢吹・三城目を獲得したのではないかと考えられる。

 天文五年(1536)十月七日、石井上総に対して出された続義名の感状が伝わっている。

 天文六年(1537)内戦を克服した芦名盛舜・盛氏父子が再び松山城に侵攻してきた。

 天文十年(1541)二階堂晴行の嫡男照行は白河領に侵攻しているが、軍を返すように陸奥守護職であった伊達稙宗から要請されている。

 天文十一年(1542)五月二階堂晴行が亡くなり二階堂照行(行秀)が六代目当主となった。

 天文十一年(1542)六月伊達稙宗・晴宗父子が対立し、晴宗が西山城に稙宗を幽閉するという事件が起こった。

 急報に接した伊達稙宗の娘婿二階堂照行は直ちに相馬顕胤・田村隆顕・芦名盛氏とともに懸田俊宗の懸田城に集結し西山城攻撃の構えを示した。

 一方、伊達家中の小梁川宗朝は西山城に潜入し伊達稙宗を救出した。稙宗方に相馬・田村・二階堂・芦名・懸田・畠山・石橋・亘理・国分氏ら、晴宗方に岩城・本宮・留守・白石氏らが味方し相方対峙するが、九月に至って二本松付近で武力衝突し近隣の諸氏を巻き込んだ「天文の乱」といわれる大乱に発展した。

 天文十六年(1547)芦名盛氏と二階堂照行は田村隆顕と対立したことから晴宗方に転じた。

 天文十七年(1548)九月、田村・二階堂・芦名氏の仲介と将軍足利義輝の停戦命令により、伊達稙宗・晴宗父子は和睦した。

 天文十九年(1550)芦名盛氏は田村隆顕と安積郡で戦い、畠山・白河両氏の仲介で和睦したが、和睦条件の一つに「名倉・荒井は盛氏の手を経て二階堂照行へ渡すこと」とあり、当時二階堂氏は芦名氏と同盟し田村氏と安積郡で戦っていることが推測される。

 この戦いで、二階堂氏は安積郡のうち名倉・荒井・笹川などを獲得したのではないかと考えられる。

 しかし、永禄年間になると芦名氏との関係は一転して悪化する。

 私は二階堂盛義(先妻は芦名盛舜の娘といわれている)の継室を伊達氏から迎えたことに起因するのではないかと考えているが、それ以降二階堂氏は芦名・田村両氏の度重なる侵攻に苦しめられる。

 二階堂氏も岩城氏の軍事的支援(伊達氏の要請によると考えられる)を受け一時攻勢に転じたこともあったが、劣勢を挽回するまでには至らなかったことは明らかである。

 永禄二年(1559)二月、渋川合戦により岩瀬郡今泉を田村氏に攻め取られる。

 永禄七年(1564)九月、二階堂照行が亡くなり二階堂盛義(行盛)が七代目当主となった。

 永禄八年(1565)二月二十日、芦名盛氏・盛興父子が松山・横田両城を攻落し横田城主を捕らえる。
その後、芦名氏と和議が成立して二階堂盛義の七歳になる御曹司(のちの芦名盛隆)が人質として会津に遣わされる。

 天正二年(1574)一月、田村氏が岩瀬郡河東郷に侵攻してきた。同年三月下旬、芦名・二階堂両氏は岩瀬郡越久と安積郡富田において田村氏と戦う。同年五月中旬、芦名氏は安積郡福原において田村氏と戦うが八百人余が討ち死にして大敗する。

 天正二年(1574)六月五日、芦名氏の当主盛興が二十六歳で病死し、人質として会津にあった二階堂盛義の長子盛隆が盛興の未亡人(伊達晴宗の四女、盛隆の叔母)の婿となり芦名家を継いだ。

 天正四年(1576)秋、田村・大内両氏は芦名領の片平城を攻め、芦名・二階堂・畠山氏はこれと戦うも敗れ、安積郡南東部の大半は田村領となった。

 天正五年(1577)七月、二階堂盛義・芦名盛隆父子は佐竹・石川両氏の加勢を得て安積郡に侵攻し田村清顕を日出山に破る。

 天正八年(1580)三月、下小山田合戦で田村氏に大勝利した二階堂盛義はその余勢をかって田村郡に侵攻して大平城を攻落した。

 天正八年(1580)六月、芦名盛隆を後見していた芦名盛氏が亡くなり、名実ともに芦名盛隆が芦名家の当主となった。

 天正九年(1581)八月、二階堂盛義が亡くなり、二階堂行親が八代目当主となった。

 天正九年末から天正十年(1582)にかけて芦名・二階堂両氏は佐竹・岩城・白河・石川氏の加勢を得て田村郡に侵攻し御代田城を攻囲する。

 天正十年四月中旬に和議が成立して、岩瀬郡の今泉が返還され、安積郡のうち守屋・富岡・笹川・鍋山・八幡・川田・成田・多田野・大槻が、田村郡のうち谷田川・栃本・糠塚・御代田の十三ヶ村が芦名・二階堂両氏に引き渡された。

 天正十年、二階堂行親が亡くなる。十三歳であったという。

 天正十二年(1584)十月六日、芦名盛隆が亡くなる。

 天正十三年(1585)十一月、二階堂氏は第一次人取り橋の合戦に参陣した。

 天正十六年(1588)四月、二階堂氏は第二次人取り橋の合戦に参陣した。同年六月、二階堂氏は郡山合戦に参陣した。

 天正十七年(1589)六月五日、芦名義広が摺上原の合戦で伊達政宗に大敗して会津の芦名氏が滅亡した。

 天正十七年(1589)十月二十六日、伊達政宗によって須賀川城を攻め落とされ戦国大名二階堂氏は滅亡した。
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